養珠院通りこぼれ話

「於満稲荷神社」は、「八重洲大飯店」と「いづみや」の間にあります。
お問い合せ  TEL 03-3273-8921 野田

お店の前の通りが「養珠院通り」になりました・・ 江戸時代から続いている「於満稲荷神社」にちなんで 

徳川家康公が江戸に幕府を開いてまもなく、お城に近い日本橋から京橋にかけてのあたりは町人の街となり、たいそう賑やかでありました。 
  物語の場所は桧物町や槇町、通町、中橋広小路と呼ばれていて、あまたの商人が店を並べていました
将軍家康公の奥御前「於萬の方」は子宝に恵まれ、長福丸と鶴松をさずかります。長福丸は後に徳川頼宣となり紀州家を興し、鶴松は徳川頼房となって水戸家を興し尾張家とともに徳川御三家と呼ばれました。養珠院様は、御三家の二家の生母で、後の将軍徳川吉宗公や水戸光圀公は子孫になるのです。

於萬の方は、1653年に77才で亡くなりましたが、生前たいへん信心深い方でした。幼名を養珠といい家康が亡くなられた後は養珠院となり家康の法要などを行いました。
晩年は、亡くなられるまで竹橋の紀州家屋敷内にお住まいでした。お寺などに高額な寄付をされていましたので様々な物資が集まっている日本橋界隈に御一行が度々たちより、買い物やお食事をされたのかも知れません。 このあたりにご休憩所があったという言い伝えが残っています。

ところが1657年の「明暦の大火」のおり、江戸城はじめ竹橋のお屋敷も含めことごとく焼けてしまいます。 何もかもすっかり焼けてしまいそれ以前の記録も焼けたようですが、町はたくましく復興し、やがて賑わいを取り戻します。於満の方も復興に大きく関わったかも知れません。  養珠院様が亡くなられると池上本門寺で葬儀が執り行われ、その後、山梨県の大野山本遠寺で遺言により荼毘ににふされ納骨されました。本遠寺霊宝解釈書には「於満の方」の記録が残されています。 

まもなく、日本橋に「於満稲荷神社」が建てられました。 それから三百五十年あまり、数々の災害をのりこえて、この地の商売繁盛と五穀豊穣の守り神として信仰され続けています。

群集参詣したる於満稲荷神社

於満が紅といふは、江戸中橋に於満稲荷とて紅粉を備願ごめする社今に在。享保の頃奇特の事ありて参詣群集したる刻の童謡なりとぞ。 是も又天の紅に混じ赤雲を見やり手拍てうたふ童今もあり・・
          (柳亭種彦 用捨箱より)
 
(於満稲荷神社は、350年経た現在、日本橋3−3−3「いづみや」さんの敷地内(八重洲大飯店となり)にあります。)

この頃、次々に稲荷周辺で評判の名物が誕生しました。中でも鮓は、その後「にぎり鮨」となったようです。 また、饅頭や白粉、紅、菓子もはやったと伝えられています。

宝暦の頃、於満稲荷神社の近くで売っていた「於満すし」が江戸中の評判を呼び名物になりました